長官としての責任
昭和20年5月、軍令部次長に転じた大西中将は、最後まで徹底抗戦を呼号し、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とはとても思えないような冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
大西の最期については、多くの若者に「死」を命じたのだからという醒めた見方もあるだろう。しかし、特攻を命じ、生きながらえた将官に、大西のような責任の取り方をした者は1人もいなかった。第五航空艦隊司令長官・宇垣纒中将(開戦時の連合艦隊参謀長)が、昭和20年8月15日、玉音放送後に特攻隊を率いて大分基地を飛び立ち、戦死しているが、これは終戦を承知で若者たちを道連れにした「私兵特攻」で、大西の身の処し方とは意味合いが異なる。
特攻作戦採用の第一の責任者である中澤佑少将(終戦後、中将に進級)は、昭和20年2月、台湾の台湾海軍航空隊司令官、次いで高雄警備府参謀長となり、台湾から沖縄方面へ出撃する特攻作戦を指揮した。そして終戦直後、大西の自刃が報じられたさい、中澤も責任を感じて自決するのではと、それとなく様子をうかがう幕僚たちを前に、
「俺は死ぬ係じゃないから」
と言い放ったのを、特攻作戦の渦中に大西中将の副官をつとめた門司親徳がじかに聞いている。門司は、「大西中将は、『俺もあとから行くぞ』とか『お前たちだけを死なせはしない』といった、うわべだけの言葉を口にすることはけっしてなかった。しかし、特攻隊員の1人1人をじっと見つめて手を握る姿は、その人と一緒に自分も死ぬのだ、と決意しているかのようでした。長官は1回1回自分も死にながら、特攻隊を送り出してたんだろうと思います。
自刃したのは、特攻を命じた指揮官として当たり前の身の処し方だったのかもしれない。でも、その当たり前のことが生き残ったほかの将官にはできなかったんですね」
と回想する。中澤佑はB級戦犯に問われ、有罪判決を受け7年間服役したが、出所後は米海軍横須賀基地に勤め、昭和52(1977)年、83歳で亡くなった。