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コロナ禍で響いた拍手忘れないでブレイディみかこさん
ロックダウンで休校になってから、息子の中学の先生たちから毎週のように電話がかかる。それぞれの教科の教員たちが定期的に保護者に連絡し、生徒たちのオンライン学習は順調か、何か問題はないかと確認しているのだ。
「先生たちこそ、オンライン授業は大変でしょう」
と言うと、ある数学の教員はこんなことを言った。
「興味深いこともあるんです。ふだんは質問なんかしてこなかった子たちがメールを送ってくる。成績も振るわず、授業に関心もなさそうだった子に限って『ここがわからない』と言って……」
「それは面白いですね」と答えると彼女は言った。
「ひょっとして、私はそういう子が質問できない雰囲気の授業をしていたのではと反省しました。今の状況はこれまで気づかなかったことを学ぶ機会になっています」
オンライン授業の準備、教員たちとのZOOM会議、保護者たちへの定期的な電話など、休校でかえって仕事は増えたに違いないと思うが、教員たちはみな熱心だ。
ケア階級に感謝の拍手
著書「負債論」で有名な人類学者のデヴィッド・グレーバーは、何年も前から「ケア階級」という言葉を使ってきた。医療、教育、介護、保育など、直接的に「他者をケアする」仕事をしている人々のことである。今日の労働者階級の多くは、じつはこれらの業界で働く人だ。製造業が主だった昔とは違う。コロナ禍で明らかになったのは、ケア階級の人々がいなければ地域社会は回らないということだった。私たちの移動を手伝うバスの運転手や、ゴミの面倒を見てくれる収集作業員などもここに含まれている。
ケア階級の人々はロックダウン中、「キー・ワーカー」と呼ばれ、英雄視された。毎週木曜日の午後8時に家の外に出て彼らに感謝の拍手を贈る習慣が続いたし、メディアでも「サンキュー、キー・ワーカーズ」のメッセージが繰り返された。
批評家の片岡大右による「『魔神は瓶に戻せない』D・グレーバー、コロナ禍を語る」というネット記事に、グレーバーのインタビューの一部が掲載されていた。
「わたしたちは、わたしたちをほんとうにケアしているのはどんな人びとなのかに気づいた。ヒトとしてのわたしたちは壊れやすい生物学的存在にすぎず、互いをケアしなければ死んでしまうということに気づいたのです」
ケア階級の仕事と対峙(たいじ)する概念として、グレーバーは「ブルシット・ジョブ(どうでもいい仕事)」という言葉を唱えている。この言葉をタイトルにしたエッセーが発表された後、英国の世論調査で、実に37%が「自分の仕事は世の中に意義のある貢献をしていない」と回答した。
意味のない会議に出るための書類を作成し、なくてもいい書類作成のための資料を集め、整理するために忙殺される。ホワイトカラーの管理・事務部門で働く人の多くが「内心必要がないと思っている作業に時間を費やし、道徳的、精神的な傷を負っている」とグレーバーは書いた。
子どもたちの記憶には、残るかもしれない
コロナ禍の最中に「命か、経済か」という奇妙な問いが生まれてしまったのも、現代の経済が大量の「ブルシット・ジョブ」を作り出すことによって回っているからだ。そのため、病人を治療したり、生徒に教えたり、老人の世話をしたりする仕事は、なぜか経済とは別のもののように考えられてきた。だが、意義を感じられないどうでもいい仕事が経済の中心になれば、経済そのものが「ブルシット・エコノミー」になってしまうとグレーバーは言う。
あたかもそれは人々の生活や命とは無関係で、「経済界」や「金融界」の中にのみ存在するもののように。そうした経済の在り方が、無意味に思える仕事に限って高収入で、本当に社会にとって必要な仕事ほど低賃金という倒錯した状況を生み、それが当たり前になっている。
英国では低賃金労働者への感謝は偽善的という議論もあった。家で仕事ができる身分の人々が、感染のリスクを冒して外で働く人々を持ち上げて利用するのはグロテスクだと言った知人もいる。キー・ワーカーに拍手をするか、しないか。ここでも分断が生じた。
とはいえ、コロナ禍が始まるとメディアから「ブレグジット」という言葉すら消えてしまったように、こういうこともまたすぐに忘れられてしまうのだろう。人間は健忘症だから、何もなかったように元の生活に戻って行く。
しかし、子どもたちはどうだろう。何カ月も学校に行かなかった日々の記憶は彼らの中に残る。あの時期、週に1度、ストリートの家々から人々が出て来て拍手をしていたが、あれは誰に向けたものだったのだろう、どうしてあんなことをしていたのだろう、と、10年後、20年後に思い出し、考える人々が出てくるのではないか。