
天皇の「人間宣言」 神格化 進んで否定
昭和二十一(一九四六)年一月一日、年頭の詔書(天皇の意思表示の公文書)が新聞に載った。これが有名な天皇の「人間宣言」で、天皇自らが神格化を否定した。
「天皇ヲ以(もっ)テ現御神(あきつみかみ)トシ、且(かつ)国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延(ひい)テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基(もとづ)クモノニモ非(あら)ズ」
天皇を現人神と崇め、国民が他の民族に優越して世界を支配する運命を持つ、などという観念は絵空事であると。
これを教科書で知った世代は「天皇の人間宣言とは」と何ともおかしな、ばかげた印象を持ったものだが、
天皇は神だ、日本は神の国だと教えられ、畏れ敬い、天皇に忠義を尽くすのが最高の名誉、最大の義務だとたたき込まれて戦争に駆り出された人々、戦禍をくぐり抜けて塗炭の苦しみを味わった国民は、
手のひらを返す「人間宣言」に相当複雑な思いを抱いたにちがいない。
どういう経過で発表されたのか、天皇自身は何を思っていたのか。
GHQ(連合国軍総司令部)は、日本を統治するに当たり、日本人が染まっている天皇神格化の観念をいかに解体し、民主化させてゆくかに頭を痛めていた。
相談を受けた学習院の英語教師・プライスが、GHQ民間情報局長に「天皇自身に神格否定の宣言をさせればいい」と提案、文章が練られたとされている。
二十年十二月二十三日、その案文が天皇に示されるものの、天皇は「日本の民主的な思想は、何も戦後になって生まれたのではない。
明治天皇の時代からあった『五箇条(ごかじょう)の御誓文(ごせいもん)』を加えてほしい」と要望、これが通って「人間宣言」の冒頭に加えられた。
天皇は、日本の民主主義の原点は「五箇条の御誓文」だと考えていたのだが、誓文発布時の事情からすると、民主主義的とはとらえられない、とする専門家も多い。
『昭和天皇独白録』には「私を神だと云うから、私は普通の人間と人体の構造が同じだから神ではない。そういう事を云われては迷惑だと云った事がある」の一文がある。
昭和十(一九三五)年のことで、当時天皇は美濃部達吉(みのべたつきち)(憲法学者)の唱える「天皇機関説」に賛同していた。
しかし、 天皇機関説は国会などで排撃され、以後、天皇の絶対化、神格化がつくり上げられていった。軍部独走を許すターニングポイントとなった事件であった。
天皇自身は神格化や絶対君主になることを望んでいなかった。(だから天皇は一貫して戦争反対、平和主義だったということではない)
いずれにせよ、苦心の末の「人間宣言」には天皇の意思が込められた。と同時に「天皇を戦争責任から遠ざけるという意味があったのはあきらか」で、戦前戦 後の日本を画する大きな出来事だった。(保阪正康『昭和史の謎』)
日本思想史研究家で牧師の角田(つのだ)三郎さん(81)=安曇野市=は十代のころ、教師の影響もあって、家族の中でただ一人クリスチャンにはならず、軍人を志望して陸軍航空士官学校に進み、満州(現在の中国東北部)に渡った。
「天皇は神であり、天皇の命令に従って死ねば神になると信じた。まさしく 時代の子でした」と苦々しげに振り返る。
兄二人は戦死、自分だけ生き残り、敗戦によってすべての価値観がひっくり返った。誰も何も信じられなくなり、横浜港に通じる運河に浮かんでいた老朽船をねぐらに浮浪者生活を送った。
どう生きるべきか苦悩の暗い海に漂い、いまにものみ込まれそうだった。
そんなとき、天皇の「人間宣言」を知った。「正直な思いとして、天皇がいまさら何を言っているんだと、全く問題にもならなかった」と一笑に付す。
角田さんの歴史の事実を突きとめる勉強、言うだけでなく実行する人生がやがて幕を開ける。
http://www.shimintimes.co.jp/yomi/aruku/198.html